2012/06/18

意味なんてないと考える意味


村上龍が主宰する「JMM」という
無料のメールマガジンを購読してる。
その中にある「MRIC」という医療関係のコーナーは
専門的な話が多いので読み飛ばすことが多いのだけれど、
本日号の「福島での意味」というタイトルが目に留まり、
考えさせられる内容だったのでここに記しておきたい。
「働く意味」を求めて苦しむ若者は少なくないが、
それを考える上でのヒントがあるように思ったので。

医師であり大学教授でもあった著者は震災後、
大学病院を辞して「福島県浜通りの放射線被爆地帯」で
神経内科医として医療活動に従事している。
記事の冒頭で「大学病院の准教授」という
「成りたくても成れない」職を投げ打ったことについて
何度かインタビューされたことに触れながら、
「思想に則って生きられる境遇」を選択しただけだ
と述べた後、「ここに来た理由」の核心をこう語る。

世の中というものも
「偶然その場に遭遇し、
意外にも手を差し伸べることになり、
行きがかり上そうなった」
という行為の集まりで成り立って欲しいと願う。
「たまたまそこに出くわしてしまったが故に、
巻き込まれて、なんだか知らないけど
いろいろやってしまった」という、言ってみれば、
そういう合理的でないものに人は動かされるし、
意味付けは後からなされるものである。
"意味"とは、ある価値に則った合理性のことだが、
意味があることの方が正しくて、
そうした価値観でしか物事が動かない世の中よりも、
偶然居合わせてしまった状況で、
意味を度外視して行動できる世の中の方が、
ずっと暮らしやすいような気がする。


それからこうも述べる。

医師の私が言うのも気が引けるが、
人助けや人命救助なんてものに、
さしたる意味など考えない方がいいのかもしれない。
意味を超えた行為だから、人はどんな現場でも、
それを実行することができるし、
理由など考えずに仕事に没頭できるのである。
そもそも人道的支援などというものは、
ものすごく衝動的で、我欲的で、
こう言っては何だが自己満足的な行為である。
合理的どころか、理性的でも、分別的でもほとんどない。 
私がここに来たことも、そういうことなのかもしれない。
冒頭の部分で、何とか動機を考えてはみたものの
明確な説明ができなかった理由は、
結局そういうことのようである。

医師としての著者の仕事の意味を、
教育という僕の仕事に引きつけて考えてみる。
単純に結びつけることはもちろん危うさもあるが、
それによって思い浮かぶ問いはたくさんある。
それを語りだすと長くなるのでここには書かないけれど、
本日更新のしおめの砂川インタビューとあわせて読むと
なかなかおもしろいんじゃないかなと思います。
たとえば「他者を幸せにすることができる力」は
はたして今の僕にどれくらいあるのだろうか、とかね。

僕らは「意味」を求めすぎて苦しくなる時がある。
なんでこんな必死に受験勉強をしてるんだろう?
なんでこんな仕事をしなきゃいけないんだろう?
そんな疑問がふくらんで押しつぶされそうになったら、
あえて意味なんてないと考える意味は小さくない気がする。
そういえば、僕がハタチくらいで色々思い詰めていた頃、
そもそも人生に意味なんてないんだぜ」
ってサマセット・モームに教えられた時には
ふっと肩から荷が降りたような気分になったなぁ。

◎砂川インタビュー「しおめが聞く」はこちら
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