2012/06/21

そんなもんにビビってんなよ。だせぇ。


すごい台風でしたね。

そんな日の昼間、
ある壁にぶち当たっていた僕は岡本太郎に会うために
川崎の山奥にある美術館へと出向いたのでした。
TAROの生誕100年だった昨年には
いつも人でごった返していたであろう美術館も、
この日は僕一人のための貸切状態になっていたのでした。
そこで岡本太郎のヘタクソな感じの絵を眺めて
僕はあらためて身が引き締まる思いをしたわけです。
「結果にこだわりすぎていては
いまこの瞬間を全力で生きることができない」と。

「プロセスを大切にする意味」については
僕がこれまでにも文章で書いたり語ったりして
さんざん主張してきたつもりだった。
だから懺悔も込めてここに書くけれど、
実際のところ、自分が一番できていなかった。
結果を追い求めていた自分に直面させられた。

よくスタッフが「塾生に教えられる」という。
これは決して謙遜の言葉ではなくて、
心から思っているからこそ口に出せるのだと思う。
実際、大学生より受験生の方が本気だ。
それは元・受験生だった大学生が一番わかってる。
僕自身、受験生の頃の本気さを
一生続けられたらノーベル賞でもなんでも取れる
と学生時代には思っていたけれど、
それはあながち間違ってはいないと今も思う。

難しいのはそれだけ本気になれることに
なかなか巡りあうことができないのかもしれない。
いやいや、ちょっと待てよ馬場祐平。
今ほど本気で向き合うべきものもないぜ。
たとえそれが誰に認められるわけでないとしても
この瞬間にすべてを賭けるべきだろうがよ。
っていうか、そんなもんにビビってんなよ。だせぇ。
そういう青臭い意気込みは、たぶん、
18歳の時でも、28歳の時でも、
あるいは50歳を過ぎた年齢になっても
たぶん変わらないのだろうなと思った一夜。

結果を求める気持ちを捨て去ることで、
「いまここ」に没頭することができる。
それが「結果として」結果を生むのを期待するのは
まだまだ僕が甘ちゃんの証なのでしょうね。さて。

岡本太郎を好きだと公言することは、
20も半ばを過ぎると恥ずかしいことに思える。
でも、だからこそ敢えて言いましょう。
かれこそ本当の意味での教育者だった、と。
だから、僕は死ぬまで岡本太郎が好きでしょう。
僕の人生を決定づけた人が言っていました。
生まれ変わるとしても自分がいいけれど、
どうしても他に一人というなら岡本太郎だ、と。
彼ほど背中で、生き様で人を教育できた男は
日本人の中では他になかなか思い浮かばない。
「教える」だけでなく「引き出す」「積み減らす」、
そうしたことまで引き受けるところに、
真の「Education」があるように僕は思います。

ちなみにEducationを「教育」と訳したのは
初代文部大臣・森有礼であり、
それに対して福沢諭吉は断固反対したのでした。
福沢の唱えた訳語は「発育」。
教えることだけを目的とするならTeachingでいい。
それに真っ向から対立するかのように
人間の可能性を「ひらく」ことを主張したEducation。
それは「教化」と「芸術」の違いであるように思う。
僕は「芸術」を自分の身をもってできる人間で
ありつづけよう、と覚悟することのできた1日でした。

台風が直撃した夜更けの帰り道、
自宅まで歩くのはちょっと気が引けたけれど、
体が浮きそうな風を背に受けながら歩いた道のりは
思わず笑いがこぼれるほど楽しかったなぁ

◎そんな可能性を追い求めてひらきまくって
   ついにはベトナムまでたどりついた真野くんの
   連載第2回が更新されました。ウマそう過ぎる。