2012/06/28

潜り、浮上せよ


幼い頃から素潜りでよく海に入っていて、
後にはタンクを背負って潜るようにもなった。
僕が海に潜るたびに感じてきたのは
人間が知らない世界がこんなにも広く、
豊かな生命の営みがあるのか、という驚き。
そこには僕らが過ごす地上の日常風景からは
想像できない景色が広がっている。

昨夜、指導を終えてオフィスを閉めた後、
しおめと天野と用務員の四人で話していたら
ふっと「潜る」という比喩が誰かの口から出た
たしかに僕らはある時に潜るのに似た経験をする。
それまでは見たことのない深く暗い世界で
僕らはそれまで知らなかったものたちに出会う。
そのような経験を繰り返すことで
僕らはすこしずつ潜ることに慣れていくのだろう。
肺活量は高まり、水圧にも体が慣れて
暗い水の中を自在に泳ぐことができるようになる。

ただ、息を詰めて潜るのは楽しいばかりではない。
むしろ苦しくて、溺れそうになることだってある。
たとえば高校を辞めてから大学受験をするまでは
僕にとってはじめての長い潜水の時間だった。
その後も何本ものダイブを繰り返してきたけれど、
静かだが凶暴な暗闇の世界にまだ不慣れな頃には
小さな過ちが取り返しのつかない事態を招きもする。
だから大切なのは、きちんと浮上すること。
そうやって地上の空気を吸い、日常を取り戻すこと。

僕らが海中に長く生きることはできない。
タンクを背負わないと水の中で生きられない人間。
素潜りでは、百数十メートルを超えては
たどりつけない肉体しか持たない弱い生物。
そのことを熟知しているプロのダイバーと潜り、
暗い海の底から浮上する経験を重ねることによって
僕らは一人でも潜りに耐えるタフさを身につける。
文学を読むという営みには
どこかしら、そうした要素があるようにも思う。

長い潜水をした後で見る地上の世界は、
一見変わらぬはずなのに、違った輝きを放っている。
そんな体験をさせられるプロのダイバーになろうぜ、
なんてことを話して盛り上がって解散したのでした。