2013/01/03

2013年、新しい地平が見えてきた。


新年明けて、
塾生に伝えたいことは塾報の新年号に書いたので、
こちらでは違う内容で書いてみたい。

これまで僕らは、
「人が主体的に学ぶためにはどうすればいいのか」、
という問題と格闘してきた。
この問題とは今も格闘しているし、
これからも格闘していくだろう。
人という「生」なものを相手にする限り、
その営みが終わることはないのだと思う。
詳しいことはもう少し時間が経ってから述べるけれど、
今年から、この格闘はこれまでになく先鋭化した形で、
より充実したものになっていくことは間違いない。

一方、塾をはじめてからの6年弱、
回数にすれば約5万回の指導を重ねる中で、
僕らは「人が主体的な学ぶ」ことに関しては、
それなりの経験を積み、知見を得てきた。
それを経たいま僕が感じているのは、
人が主体的に学ぶためには、
その人ひとりの力ではどうしようもないことがある、
ということだ。
つまり、ある人が主体的に学ぶか否かは
その人を取り巻く環境によって大きく左右される、
というごく当たり前の事実だ。

たとえば、家庭の問題。
どのような幼少期を経て、
どんな父母兄弟との関係性の中で育ったのかによって、
その人の学ぶ力は大きく左右される。
家庭の問題は、ぱっと思いつくだけでも、
文化資本や学習資本という言葉とも関係するし、
あるいは父性や母性の原理といった言葉とも関係する、
とてつもなく広がりのある問題だ。

家庭の問題だけではない。
学校の問題。地域の問題。あるいは法制度の問題や、
ITやウェブといった時代の変化の問題。
もっと大きな視点で言えば、国の成り立ちや、
国家間の関係すら、そこに絡んでくるのかもしれない。
考えるべきこと、学ぶべきことは無限にある。
僕は「人」とはそれなりに向き合ってきた自負があるが、
いま述べたような、より大きな広がりのある問題は、
率直に言って、意識的に避けていたと今は思う。

「人が主体的に学ぶためにはどうすればいいのか」
という問題について、それなりの知見と経験を積んだ今、
それを軸に、より広がりのある問題との格闘をはじめよう。
それが、次なる僕の進むべき道なのだろう。
2013年の始まりに、そんな漠たる予感を抱いた。

もちろん、だからといって、
「人が主体的に学ぶためにはどうすればいいのか」
という問題の重要性がいささかも失われるわけではない。
そもそも、この問題に対する答えだって、
正直なところ、まだかなりあやふやなものだ。
若い人がそれを実践するための手引きとしては、
『学欲』としてひとまとまりの文章として
僕が現時点で書けることは書いたけれど、
それを一つの教育プログラムとして体系化するには
時間がかかるし、僕一人の力でできるものでもない。
実際、指導現場の方法論の過半は経験的なもので、
道伴舎の指導スタッフ内では暗黙知として共有され、
足りないところは一人ひとりのスタッフの情熱が補っている。
それは、今後の大いなる課題だ。

とはいえ、一人ひとりの人間と丁寧に向き合い、
これだけの暗黙知を蓄えてきた教育集団もそうはあるまい。
だからこそ、これまで経験してきたことを元に、
磨きをかけ、言語化や構造化をする作業を進めながら、
より広がりのある問題との格闘を新たにはじめたい。
そ一人ひとりと向き合ってきた僕らだからこそ、
できることがあるに違いない。
僕の10年間の思考をぎゅっと凝縮した本を出した後、
次なるステージはどこにあるのかと探していたのだけれど、
どうやら僕の人生の三章目は、この方向で決まりそうです。

まだまだ僕は、そして僕らは、未熟だ。
でも、その代わり、若さと情熱がある。
今はまだ、それを拠り所に、突き進んでいきたい。
こういう新たな挑戦の先が見つかるからこそ、
冒険はやめられないんだ。

皆さん、あけましておめでとうございます。
本年度は突き抜けますので、どうかよろしくお願いします。

道伴舎体験記の三人目、更新されています。
 中一から六年間引きこもった彼は、今、どこへ。
 前回、前々回に引き続き、心を震わせる内容です。

◎年末は照屋と吉野を中心に関西探訪。
 元京都スタッフや卒塾生に会いにいった旅が
 どうなったのかは、僕もまだ詳しく聞いてません。
 仕事はじめの後、くわしくレポートされる、、、かも。

◎写真は、社名を変えてからも
 僕の棚に取っておいた昔の看板。
 ある人から、会社化のお祝いにいただいたものです。
 過去への感謝の気持ちとともに、
 昨年度の大掃除の時に処分しました。
 ありがとうございました!